
賤ヶ岳合戦図屏風(右隻) 江戸時代 長野・佐久市教育委員会蔵 【大阪・左隻:前期/右隻:後期、東京・通期】
本展覧会のみどころ
本展覧会ではドラマと連動し、これまであまり光の当たることがなかった秀長の人となり、兄・秀吉の天下一統を支えた数々の功績を貴重な歴史資料から読み解いていきます。武と智をそなえ、策と対話で道を切り拓いた最強のNo.2秀長の生き様を、とくとご覧あれ!
《主な展示替》
名古屋展 |
前期:4月18日(土)~5月17日(日) 後期:5月19日(火)~6月14日(日)
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大阪展 |
前期:7月8日(水)~8月3日(月) 後期:8月5日(水)~8月31日(月) |
東京展 |
前期:9月15日(火)~10月12日(月) 後期:10月14日(水)~11月8日(日) |
- ※会期中、一部の作品は上記以外も展示替を行います。
プロローグ:武と智の兄弟
兄・秀吉、弟・秀長――この二人の兄弟が、16世紀末の日本を大きく動かしました。前半生には不明な点も多いものの、信長に仕えた秀吉が頭角を現し、秀長も兄を支えます。秀吉政権下では秀長は一門筆頭として活躍し、度重なる戦争で総大将や主力軍として秀吉を支えました。
愛知県指定文化財 豊臣秀吉像
慶長5年(1600)賛 愛知・妙興寺蔵 【大阪・後期】
豊臣秀長像
文禄2年(1593)賛 京都・大光院蔵 【大阪・後期】
豊臣秀吉像
桃山~江戸時代 17世紀 京都・禅林寺蔵 【東京・前期】
豊臣秀長像
桃山~江戸時代 17世紀 京都・禅林寺蔵 【東京・前期】
第1章:転戦の日々
秀長が歴史に姿を現すのは、天正2年(1574)の伊勢・長島一向一揆攻めにおいてでした。以後、秀吉とともに各地を転戦し、但馬・播磨・因幡と戦功を重ねていきます。本能寺の変後、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いでも秀吉を支え、勝利に大きく寄与しました。秀吉が天下人への階段を登りはじめるなか、それを陰に陽に支えたのが秀長でした。
賤ヶ岳合戦図屏風
江戸時代 長野・佐久市教育委員会蔵 【大阪・左隻:前期/右隻:後期、東京・通期】
羽柴秀吉書置 美濃守宛
天正11年(1583)3月晦日 滋賀・長浜城歴史博物館蔵 【大阪・7/8~7/27 東京・9/15~10/4】
第2章:天下一統
天正11年(1583)、大坂に居城を定めた秀吉は、各地の大名との戦いに乗り出します。小牧・長久手の戦いでは織田信雄・徳川家康に苦戦しながらも最終的に臣従させ、2人を大坂城に迎えました。さらに紀州・四国・九州と続く戦いで、秀長は総大将や調整役として活躍します。天正13年7月、秀吉は関白に就任して豊臣姓を称し、聚楽第を築いて朝廷にも影響力を広げました。秀長も大納言に任じられ、「大和大納言」と称されるに至りました。
御所参内・聚楽第行幸図屏風(左隻)
江戸時代 17世紀 小林英好氏蔵(上越市立歴史博物館寄託) 【東京・通期】
大阪市指定文化財 金箔桐文方形飾瓦
16世紀 大阪歴史博物館保管 【大阪・通期 東京・通期】
第3章:大和入国
紀伊・和泉を得た秀長は、四国攻めの功により、さらに大和を与えられます。寺社勢力の強いこの地に入国すると、郡山城を本拠に城郭整備と城下町の再編を進め、商人の移住や座の停止を通じて新たな都市基盤を築きました。やがて町は発展し、現代へとつながる郡山の姿が形づくられていきます。藤堂高虎・桑山重晴らの有力家臣もこれに加わり、軍事と領国支配の両面で秀長を支えました。
桑山重晴像
桃山~江戸時代 16~17世紀 大阪・理智院蔵 【大阪・後期 東京・後期】
郡山城跡出土瓦 (左)
16世紀 奈良・大和郡山市蔵 【大阪・通期 東京・通期】
大坂城跡出土瓦 (右)
16世紀 大阪市教育委員会蔵 【大阪・通期 東京・通期】
紅糸胸白威二枚胴具足
藤堂高虎所用 江戸時代 17世紀
大阪城天守閣蔵 【大阪・通期】
第4章:時の権力と美
織田信長・秀吉のもとで諸勢力が統合された織豊期は、芸術・芸能が権力者の保護のもと大きく花開いた時代でもありました。秀吉は能や茶の湯に深く傾倒し、朝鮮出兵のための肥前名護屋在陣中にも能を催すほどでした。秀長もまた能や茶の湯を通じて武将や奈良衆との交流を重ねます。こうした場を彩ったのが、千利休や小堀遠州らをはじめとする数寄者や職人たちによる工芸品でした。
重要文化財 刀 無銘 一文字 名物 南泉一文字
豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康ほか所持 鎌倉時代 13世紀 愛知・徳川美術館蔵 【大阪・前期 東京・後期】
重要文化財 秋草菊桐蒔絵湯桶
桃山時代 16世紀 京都・高台寺蔵 【大阪・通期】
重要文化財 秋草蒔絵天目台
桃山時代 16世紀 京都・高台寺蔵 【東京・通期】
肩衝茶入 銘 薬師院
豊臣秀長ほか所用 中国・南宋~元時代 13~14世紀 兵庫・香雪美術館蔵 【大阪・通期 東京・通期】
第5章:豊臣の落日
晩年、秀長は病に倒れ、天正19年(1591)にこの世を去ります。その死は秀吉を大きく揺るがし、ほどなく千利休の切腹や愛児・鶴松の死が重なり、豊臣政権に影を落としました。やがて秀頼誕生により後継問題が再燃し、甥の秀次が排除されるなど体制は大きく動揺します。秀吉亡き後、幼い秀頼が後を継ぎますが、徳川家との対立は深まり、大坂の陣が勃発します。秀頼は自刃し、豊臣家は断絶の時を迎えました。
羽柴秀長都状
天正18年(1590)10月吉曜日 奈良国立博物館蔵 【大阪・後期 東京・後期】
秀長公二百回忌留書
天保11年(1840) 奈良・春岳院蔵 【大阪・通期 東京・通期】
エピローグ:兄弟ふたたび
大友宗麟が大坂城を訪れた際、秀長は「内々のことは千利休、公のことは自らが担うので悪いようにはしない」と語り、宗麟を感激させたと伝わります。頂点に立つ秀吉と周囲をつなぐ存在として、秀長は大きな信頼を寄せられていました。とりわけ秀吉にとって秀長は、意を深く理解するかけがえのない右腕でした。互いに信頼し支え合いながら天下一統を成し遂げた兄弟の絆は、現代の私たちにも強く響いてきます。
大阪市指定有形民俗文化財 伝豊国大明神坐像
室町~江戸時代 大阪・大宮神社蔵 【大阪・通期 東京・通期】
豊臣秀長公像
寛永7年(1630) 奈良・壷阪寺蔵 【大阪・通期 東京・通期】

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